世界史
No.107 中ソ対立と共産党の内部対立

毛沢東の強硬姿勢

「大躍進」の失敗

1950年代、中華人民共和国は戦前の農工業生産額を上回りました。
しかし、強引な工業化・農業集団化は共産党の支配への批判を招きました。
1950年代後半、毛沢東 は工業・農業の急激な発展を目指すスローガン「大躍進 」を掲げました。
農村では農業集団化を図る人民公社 が設立されました。
しかし、毛沢東の掲げた大躍進は、生産の急減など多大な犠牲を出して失敗しました
1959年、毛沢東にかわって劉少奇りゅうしょうきが国家主席となり、計画経済を見直しました。
人民公社 :::lead 農村部における生産活動と行政・教育活動などを一体化した組織
毛沢東 :::lead 国家主席辞任後も、共産党主席を継続

隣接する諸国との衝突

#### チベット
1959年、チベットで反中国運動 が発生しました。
#### インド
中華人民共和国とインド軍の間で中印国境紛争が起こりました。

中ソ対立

共産党主席の毛沢東は、アメリカとの対決路線を採りました。
そのため、ソ連がアメリカとの平和共存路線を採ったことを批判しました。
1960年、ソ連は中華人民共和国への経済援助を停止しました
1963年以降、社会主義の路線をめぐる中ソ論争が始まりました。
1969年、中ソ国境紛争 :::lead 、中ソ国境紛争 ウスリー川の中ソ国境で起こった軍事衝突

プロレタリア文化大革命

共産党内の対立

中華人民共和国国家主席の劉少奇と共産党主席の毛沢東は、中国共産党内の対立を起こしました。
1966年、毛沢東は、劉少奇 鄧小平とうしょうへいらを資本主義の復活を図る「実権派 走資派)」と批判しました。
毛沢東 は権力闘争プロレタリア文化大革命 を展開し、学生が中心となって組織した紅衛兵 を動員して大衆運動を盛り上げました。
文化大革命で劉少奇 が失脚し、国家主席は廃止されました。
文化大革命末期、毛沢東の権威を背景に、「四人組 」が権力を握りました。
1976年、毛沢東が死去すると、首相の華国鋒は四人組を逮捕しました。
1977年、文化大革命の終了が宣言されました。

四つの現代化

10年間のプロレタリア文化大革命は、社会的な混乱と共産党内の対立をもたらしました
1981年、復権した鄧小平 は①農業②工業③国防④科学技術の「四つの現代化 」を推進しました。