世界史
No.63 フランス革命

フランス革命の前史と開始

第三身分の不満

フランス革命以前のフランスにおいて、国民は次のように区別されました。
- 第一身分:聖職者 - 第二身分:貴族 - 第三身分:平民
人口の9割以上が第三身分でした。
つまり、少数の特権身分(第一身分・第二身分)が土地・官職などを握っていました。
第三身分の商工業者は、財力をつけるにつれて、現状の待遇と税の負担に不満を感じました。
1789年、シェイエス が『第三身分とは何か 』を著し、第三身分の権利を主張しました。

三部会と国民議会

フランスは、度重なる戦争で財政難に陥りました。
フランス国王ルイ16世は、テュルゴー を、また後にはネッケルを起用し、特権身分に対する課税によって財政問題を解決しようとしました
しかし、特権身分が抵抗したため、ルイ16世 は3つの身分の代表者が議論する三部会 を召集しました。
三部会 :::lead ルイ13世 の治世下に召集された17世紀初めから18世紀末まで開催なし
1789年5月、三部会がヴェルサイユ宮殿で開かれました。
三部会では、特権身分(第一身分・第二身分)と第三身分が議決方法をめぐって対立しました。
第一身分・第二身分は、1身分1票という特権身分に有利な議決方法を主張しました。
第三身分の代表者は、三部会から離脱して国民議会をつくり、憲法制定を要求しました。
ミラボー :::lead onclick="chg(this)" class="all">ミラボー 国民議会の指導者的人物で、ラ=ファイエットと同じく、立憲君主政を目指した自由主義的な貴族
議決方法をめぐる対立
議決方法をめぐる対立
1789年6月、テニスコートの誓い :::lead 6月、テニスコートの誓い国王の国民議会閉鎖の決定に反対し、第三身分の代表者がヴェルサイユ宮殿の球技場に集まり、憲法制定まで解散しないことを誓ったこと
テニスコートの誓い
テニスコートの誓い
1789年7月14日、バスティーユ牢獄 への襲撃 :::lead 7月14日、バスティーユ牢獄 への襲撃国王と軍隊の動きに怒ったパリ市民が、多量の武器・弾薬があると信じられていたバスティーユ(牢獄の意)を襲撃し、占領した事件
バスティーユ牢獄 :::lead ユ牢獄14世紀後半、シャルル5世が要塞として建設

国民議会の施策

#### 封建的特権の廃止
1789年8月、国民議会 は次の封建的特権の廃止を決定しました
- 領主裁判権 - 教会への十分の一税 - 封建地代(領主が農民の所有地から徴収する年貢など)
ただし、封建地代は有償廃止とされ 、実際には継続しました。
#### フランス人権宣言
1789年8月、人権宣言 採択 :::lead 8月、人権宣言 採択ラ=ファイエット が起草した宣言
#### 市民層が求める改革
1790年、国民議会 は市民層が求める次の改革をおこないました。
- 教会財産の没収 - ギルドの廃止 #### 国王の信頼失墜
1791年6月、ヴァレンヌ逃亡事件 :::lead 6月、ヴァレンヌ逃亡事件 フランス国王ルイ16世一家がオーストリアへの逃亡を計画し、失敗に終わって軟禁された事件

憲法発布と国民議会の解散

1791年、憲法が発布され、立憲君主政 、一定額以上の納税での選挙権が定められました。
目的を果たした国民議会は、解散となりました。

共和政の実現

立憲君主政か共和政か

1791年の制限選挙の結果、立法議会が成立しました。
立法議会で、次の2派が対立しました。
- 立憲君主派 :::lead 革命のこれ以上の進行を望まない派閥 ::: - ジロンド派 :::lead 大商人の利害を代表して共和政を主張する派閥 :::
1792年、ジロンド派が立憲議会で優勢となり、実権を握りました。

反革命への戦争

1791年、ピルニッツ宣言 :::lead 、ピルニッツ宣言革命の波及を恐れ反対するオーストリア・プロイセンが、ルイ16世の救援を各国君主に呼びかけたこと
1792年、ジロンド 派が実権を握った立法議会 は、オーストリアへの宣戦を可決しました。
しかし、フランスの軍隊には国王を支持する王党派が多く、戦意に欠けました。
フランスは、オーストリア・プロイセンの連合軍に国内に侵入されました。
この危機に際して、フランス各地から義勇軍が集まりました。
1792年、8月10日事件 :::lead 、8月10日事件フランスの義勇軍がテュイルリー宮殿を襲い、王権を停止させた事件
ラ=マルセイエーズ :::lead イエーズフランス の国歌で、マルセイユからきた義勇軍が歌った軍歌に由来
1792年9月、男性普通選挙による国民公会が成立しました。
国民公会 は、王政の廃止 と共和政の樹立を宣言しました。

王の処刑と内外の危機

国民公会では、急進的なジャコバン派(山岳派)が勢力を増しました。
1791年、共和政が強調され、ルイ16世が処刑されました。
君主政のイギリスは、王を打倒する革命が波及することを恐れました。
イギリス の首相ピット は、ルイ16世 の処刑をうけ、第1回対仏大同盟 を提唱・結成しました。
結果、フランスは全ヨーロッパと敵対し、国内では王党派と結びついた農民反乱を抱えました。

国民公会の政策

#### ジロンド派の追放と支持確保の政策
内外の危機に際して、ジャコバン派(山岳派)はジロンド派を国民公会 から追放しました。
国民公会の主導権を握ったジャコバン派は、次の政策を採用しました。
- 1793年憲法制定 :::lead 男性普通選挙の採用 ::: - 封建地代の無償廃止 - 物価の統制 - 徴兵制の導入 - 革命暦共和暦)制定 :::lead グレゴリウス暦の否定、革命祭日として「サンキュロットの日」の設定 ::: - メートル法制定 #### 高まる不満とジャコバン派の没落
ジャコバン派の指導者ロベスピエールは、国民公会内の公安委員会 に権力を集中させ、独裁・恐怖政治をおこないました。
有力農民・市民は、次第にジャコバン派、そしてロベスピエールに不満を高めました。
1794年7月、テルミドール9日のクーデタ :::lead 7月、テルミドール9日のクーデタ ジャコバン派の指導者ロベスピエール が逮捕・処刑された事件

新政府の樹立

ジャコバン派の没落後、穏健共和派が有力となりました。
1795年憲法に基づく、ブルジョワ勢力中心の政府総裁政府 が樹立しました。