世界史No.64 ナポレオン戦争
フランス革命の終結
革命の行方
1795年憲法に基づく、ブルジョワ勢力中心の政府総裁政府 が成立しました。
革命で既に利益を得た有産市民や農民は、社会の早期安定を望みました。
一方、総裁政府の下での革命の後退を阻止するため、バブーフ が私有財産の廃止を主張し、政府転覆を計画しました。
ナポレオンの登場
1796年、ナポレオンはイタリア派遣軍司令官としてオーストリア軍を破り、名声を高めました。
以降、ナポレオンは諸外国の干渉から革命を守る防衛戦を指揮しました。
1815年まで続くこの戦いはナポレオン戦争と呼ばれ、次第に侵略戦争へと変質しました。
1798年、ナポレオンはイギリスとインド の連絡を断つために、オスマン帝国支配下の エジプト に遠征しました。
ロゼッタストーン
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トーン1799年、エジプト遠征中にナポレオン軍の兵士が発見した石板
統領政府の成立
1799年、イギリスが他国と第2回対仏大同盟を結成し、フランス国境を脅かしました。
この状況をうけ、総裁政府はフランス国民の支持を失いました。
1799年、ブリュメール18日のクーデタ
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、ブリュメール18日のクーデタ ナポレオンが総裁政府を倒し、3人の統領による統領政府を立てた出来事
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皇帝ナポレオン
第一帝政の開始
第一統領のナポレオンは、革命をめぐって対立した次の勢力と和解し、フランスの安全を確保しました。
- 1801年、教皇との和解
- 1802年、アミアンの和約
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イギリスとの和解
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また、ナポレオンは次の内政に取り組みました。
- フランス銀行の設立
- ナポレオン法典(民法典)の公布
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私有財産の不可侵、法の前の平等、契約の自由などを設定
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1802年、ナポレオンは終身統領となりました。
そして1804年、ナポレオンは圧倒的支持をうけ、ナポレオン1世として皇帝となりました。
皇帝となった ナポレオンは、革命暦を廃止しました。

「ナポレオンの戴冠式」
フランスは大同盟との戦いを展開しました。
#### 対イギリスの経済作戦
1806年、ナポレオンはイギリスとヨーロッパ諸国の 通商断絶を目的に、ベルリン で大陸封鎖令 を出しました。
#### 侵略戦争への変質
1805年、トラファルガーの海戦
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、トラファルガーの海戦 ネルソン の指揮するイギリス海軍が、ナポレオン軍の艦隊に勝利
1805年、アウステルリッツの戦い
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、アウステルリッツの戦い フランスがオーストリア・ロシアの連合軍に勝利
1806年、フランスは西南ドイツの領邦を保護下に置き、ライン同盟 を結成しました。
結果、多くの領邦が神聖ローマ帝国から離脱したため、神聖ローマ帝国皇帝が地位を放棄し、神聖ローマ帝国 が消滅しました。
1807年、ティルジット条約
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、ティルジット条約 フランスがプロイセン・ロシアの連合軍を破って結ばせた条約
権威の絶頂
ナポレオンは兄弟を各国の王位につけました。
また、ナポレオン自身はオーストリアのハプスブルク家の皇女と結婚し、一族の地位を高めました。
征服地の反乱気運
ナポレオンの被征服地では、征服によって改革が進む反面、強い民族意識が生まれました。
#### スペインでの出来事
スペイン では、フランスの支配に対する抵抗運動が起こり、民衆が処刑されました。
画家ゴヤ が「1808年5月3日」でナポレオン軍の残虐行為を表現

「1808年5月3日」
また、シュタイン ・ハルデンベルク が農民解放などの改革をおこないました。
ナポレオンの敗北
1812年、ナポレオンは大陸封鎖令 を無視したロシア に遠征をおこないました。
この遠征はロシアの作戦に阻まれ、失敗に終わりました。
この遠征失敗を機に、諸国はフランスからの解放戦争に臨みました。
1813年、ライプツィヒの戦い
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、ライプツィヒの戦い ナポレオンがプロイセンなどの連合軍に敗北した 戦い
1814年、諸国にパリを占領され、ナポレオンは退位してエルバ島に流刑されました。
ルイ16世の弟ルイ18世 が王位につき、ブルボン朝の王政が復活しました。
しかし、1815年、ナポレオンはパリに戻り、皇帝に復位しました。
1815年、ワーテルローの戦い
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、ワーテルローの戦い ナポレオンがイギリス・プロイセンなどの連合軍に完敗
