世界史No.68 クリミア戦争とロシアの改革
クリミア戦争
「ヨーロッパの憲兵」
1848年革命において、ハンガリーはコシュート (コッシュート)の指導でオーストリアからの独立を目指しました。
ロシアはオーストリアを支援し、ハンガリーの民族運動を制圧しました。
このことから、ロシアは反革命の擁護者として「ヨーロッパの憲兵」と呼ばれました。
南下政策
古くから、ロシアは不凍港を求め、南方への進出を図る南下政策を採ってきました。
1831~33、39~40年のエジプト=トルコ戦争にも、南下政策の一環で介入しました。
不凍港
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冬季に凍結しない港
1853~56年、クリミア戦争
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56年、クリミア戦争オスマン帝国と南下政策を進めるロシアの戦争
1856年、パリ条約
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、パリ条約 黒海の中立化を取り決め、ロシアの南下を阻止した条約
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国内改革への注力
クリミア戦争後、ロシアは南下政策を中断し、国内改革に力を注ぎました。
この時期、イギリスもインドでの大反乱鎮圧に追われました。
2大国の監視が緩む中、ヨーロッパ列強の連携が崩れ、諸国は独自の活動を進めました。
1870年頃まで、各地で戦争や紛争が多発することになりました。
ロシアの国内改革
専制政治と農奴制
クリミア戦争後、ロシア皇帝アレクサンドル2世は、国内改革を急ぎました。
他国に比べ、ロシアでは次のことが依然として続き、近代化に遅れていました。
- 専制政治
- 農奴制

アレクサンドル2世
1861年、農奴解放令
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、農奴解放令 皇帝アレクサンドル2世 の治世下で出された、農奴の人格的自由を認める命令
農村共同体
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ロシアの農村のことで、自給自足を営む共同体
1863~64年のポーランド反乱鎮圧後、皇帝アレクサンドル2世は自由主義的な姿勢を後退させ、専制支配を強めました 。
ナロードニキの活動
ロシアの知識人階級インテリゲンツィアの一部は、上からの改革に満足しませんでした。
彼らは、西欧のような資本主義の道を通ることなく、農村共同体 (ミール)を基盤として、社会主義に 改革できると考えました。
この考えから「ヴ=ナロード (人民のなかへ)」のスローガンを掲げて農村共同体に入り、ナロードニキ (人民主義者)と呼ばれました。
ナロードニキの活動は、農民から受け入れられず失敗に終わりました。
失望した一部のナロードニキは、テロリズムに走り、皇帝アレクサンドル2世を暗殺しました。
