世界史
No.75 オスマン帝国の動揺と改革

オスマン帝国の支配の動揺

領土の縮小

17世紀後半 、オスマン帝国は第2次ウィーン包囲に失敗しました。
さらにオスマン帝国は、次の出来事でヨーロッパに対する勢力を後退させました。
- 1699年、カルロヴィッツ条約 :::lead オスマン帝国が、ハンガリーなどをオーストリアに割譲し、領土を縮小 ::: - 1768〜74、ロシア=トルコ戦争(第一次) :::lead オスマン帝国がロシアに大敗して黒海北岸を喪失 :::
オスマン帝国が領土を喪失する一方、ヨーロッパ列強が攻勢に転じました。

独立運動の始まり

フランス革命は、オスマン帝国支配下の人々に影響を与えました。
民族的自覚が起こり、オスマン帝国からの独立を求める運動が起こりました。
ヨーロッパ列強は、利害を考えて独立運動に干渉しました。
1821~29年、ギリシア独立戦争 :::lead 29年、ギリシア独立戦争 ギリシア がオスマン帝国から独立した戦争

アラブ民族の運動

ワッハーブ王国の建国

18世紀半ば、イブン=アブドゥル=ワッハーブは、アラビア半島 でイスラームの改革運動を起こしました。
ワッハーブは、イスラームから神秘主義や聖者崇拝を取り除き、「預言者の教えに戻れ」と主張しました。
ワッハーブ(派)運動 :::lead (派)運動ワッハーブを支持するワッハーブ派の運動で、イスラームの原点への回帰を主張
「預言者の教えに戻れ」と主張するワッハーブ 派は、アラビア半島の中央部に拠点をもつサウード 家と同盟を組んでワッハーブ王国を建国しました。

エジプトの自立

1798年、ナポレオンがオスマン帝国支配下のエジプトを占領しました。
しかし、フランスがイギリスとオスマン帝国の連合軍に敗れたため、オスマン帝国の主権が復活しました。
1805年、現地の人々の支持を得て、オスマン帝国軍のムハンマド=アリー がエジプト総督になりました。
ムハンマド=アリーは、次の政策でエジプトの近代化へ向けた改革を推進しました 。
- 近代的な陸海軍の創設 - 造船所・官営工場・印刷所の建設 - 綿花などの商品作物の奨励 - 農作物の専売 - 教育制度の改革
1818年、ムハンマド=アリーはオスマン帝国の求めに応じて、一時ワッハーブ王国を滅ぼしました。
1822年、さらにムハンマド=アリーは、スーダン 東スーダン)を征服しました。

エジプトの反抗

1831~33、39~40年、エジプト=トルコ戦争 :::lead 33、39~40年、エジプト=トルコ戦争 エジプト総督ムハンマド=アリーが、オスマン帝国にシリア総督の地位も要求した戦争
1840年、ロンドン会議 :::lead 、ロンドン会議 エジプト総督ムハンマド=アリーにシリアを返還させる一方で、エジプト総督・スーダン総督の世襲を許可

エジプトの負債と民族運動

エジプトは、近代化政策と戦争で財政がほぼ破綻していました。
1875年、イギリス は、エジプト からスエズ運河会社の株式を買収し、インドへの道を確保しました。
1876年、エジプトは遂に財政破綻を起こし、イギリス・フランスの財務管理下に置かれました。
スエズ運河 :::lead 1869年、フランス 人技師レセップス の指揮下、フランスとエジプトの共同出資で開通
ウラービーの反乱は、後のエジプト民族運動の原点となりました。

オスマン帝国の改革

西欧化改革

19世紀、オスマン帝国はイェニチェリの廃止などの改革を進めました。
1839年、スルタンのアブデュル=メジト1世 が、ギュルハネ勅令 を出し、行政・軍事の西欧化改革タンジマート を開始しました。
ギュルハネ勅令の発布
ギュルハネ勅令の発布
タンジマートの結果、オスマン帝国は法治主義に基づく近代国家へと体制を改めました。
宗教の別を問わない法的な平等も認められました。
しかし、ヨーロッパの工業製品が流入し、地域産業の没落が問題になりました。

アジア最初の憲法

クリミア戦争後、オスマン帝国では立憲制への要求が高まりました。
1876年、オスマン帝国の宰相ミドハト=パシャが起草したミドハト憲法 が、制定されました。
1877~78年、ロシア=トルコ戦争露土戦争) :::lead 78年、ロシア=トルコ戦争露土戦争)ロシアとオスマン帝国の戦争で、ロシアが勝利
1878年、スルタンのアブデュルハミト=ハミト2世は、ロシア=トルコ戦争 が起こったことを口実に、ミドハト憲法を停止しました。