世界史No.97 ヴェルサイユ体制・ワシントン体制への挑戦
満州事変と日中戦争
好景気からの急降下
第一次世界大戦期、日本は大戦景気に支えられました。
しかし、徐々に不況に転じ、1927年の金融恐慌、1929年の世界恐慌が追い打ちをかけました。
社会不安の拡大をよそに、日本の政党は政権争いを続けました。
政党への期待が薄れ、一部の軍人は、大陸支配の拡大で経済危機を乗り切ろうと考えました。
満州事変
1931年9月、柳条湖事件
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9月、柳条湖事件 日本の関東軍が満州の柳条湖 で南満州鉄道を爆破した事件
満州
日本の軍事行動は国際的に批判され、真相解明のために国際連盟 によってリットン調査団 が派遣されました。
1932年、関東軍は既成事実をつくるため、清朝最後の皇帝溥儀 を執政 として満州国 を建国しました。
リットン調査団および国際連盟は、満州国を認めず 、軍事行動を自衛のためとする日本の主張を退けました。
1933年3月、日本は国際連盟 を脱退しました。
満州国は内モンゴルの東部まで支配
国民政府の優先事項
#### 国民政府満州事変勃発後も、中国の国民政府は中国共産党との戦いを優先しました。
#### 中国共産党
1934年、共産党軍 (紅軍)は、国民政府の包囲から逃れるために中国奥地を目指す長征 を実行しました。
1935年8月、中国共産党は抗日民族統一戦線の結成を呼びかける八・一宣言 を出しました。
1936年、西安事件
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、西安事件 八・一宣言に影響を受けた張学良 が西安 で蔣介石 を監禁し、内戦停止と抗日民族統一戦線を迫った事件
日中戦争の開戦
1937年7月、盧溝橋事件
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7月、盧溝橋事件 北京に駐留する日本軍と国民政府軍が、北京郊外で軍事衝突した事件
1901年の北京議定書に従い、諸外国は北京に駐兵
各地での軍事衝突を受け、1937年9月、中国国民党と中国共産党による第2次国共合作 が成立しました。
以降も衝突は拡大を続け、日中戦争と呼ばれる全面的交戦状態に入りました。
1937年12月、日本は南京 を占領しました。
日本の停戦の呼びかけに対し、国民政府は首都を重慶 に移し、アメリカ・イギリスなどの支援を得て抗戦を続けました。
1940年、日本は国民政府との交渉を断念し、南京 に汪兆銘おうちょうめい の親日政府を樹立しました。
日本は南京の政府を正式な政府として停戦交渉を進めましたが、中国の民衆から支持を得られませんでした。
ドイツの再軍備
ナチ党の台頭
第一次世界大戦後、ドイツではヒトラーを指導者とするナチ党(ナチス)が、次のことを主張しました。
- ユダヤ人排斥を主張する人種差別主義
- ヴェルサイユ条約破棄
- 民族共同体建設による国民生活の安定
現状否定と暴力に訴えるナチ党の主張は、当初支持されませんでした。
1929年からの世界恐慌は、アメリカに復興援助を頼るドイツに、大きな被害を与えました。
ドイツで社会不安が広がると、ナチ党の大衆宣伝に心動かされる人が増えました。
1932年、ナチ党は選挙で第一党になり、1933年、ヒトラーが大統領ヒンデンブルク から首相に任命されました。

ヒトラーを囲む青年*ヒトラー人気を強調するメディアの宣伝
1933年、全権委任法
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、全権委任法 国会の立法権を政府に委譲した法律
全権委任法成立後 、ヒトラーはナチ党以外の政党を解散し、ナチ党の一党独裁体制を築きました。
1934年のヒンデンブルク大統領の死後、ヒトラーは大統領の権限をもあわせた総統 と称しました。
ナチ党の独裁体制成立以降のドイツをナチス=ドイツと便宜的に呼称
ナチ党政権(ナチス=ドイツ)の政策
#### 監視と強制収容ヒトラーは、反対派やユダヤ人を秘密警察ゲシュタポ に監視させ、強制収容所に押し込めました。
このため、社会主義者・ユダヤ人などが国外へ亡命
例えば、アインシュタイン がナチ党の支配から逃れて亡命
#### 公共事業と軍需生産の拡充
ナチス=ドイツは、アウトバーン (自動車道路)の整備など公共事業や軍需生産によって、失業の解消を図りました。
#### オリンピックの開催
1936年、ベルリンでオリンピックが開催されました。
ヒトラーはオリンピックを国威発揚のイベントとして利用しました。
#### 再軍備
1933年、ナチス=ドイツは国際連盟 から脱退し、1935年、徴兵制 の復活と再軍備 を宣言しました。
再軍備宣言は、イギリス・フランス・イタリアから抗議を受けました。
また同年1935年、住民投票によってザール地方を編入しました。
ザール地方
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第一次世界大戦後、フランスが国際連盟の管理下で炭鉱の権利を獲得

ザール地方
1936年、海軍協定
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、海軍協定 各国がナチス=ドイツの再軍備に抗議する中、宥和政策を採るイギリスがドイツと締結し、その海軍力保有を認めた条約
1936年、ナチス=ドイツは仏ソ相互援助条約を理由にロカルノ条約 を破棄し、非武装地帯のラインラント に進駐しました。
仏ソ相互援助条約
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助条約1935年、ナチス=ドイツの再軍備宣言に対抗するため、フランス・ソ連が不可侵条約を強化したもの
三国枢軸の形成
イタリアの対外侵略
イタリアは経済基盤が弱く、世界恐慌で行き詰まりました。
イタリア首相ムッソリーニは、対外侵略で苦境を脱しようとしました。
1935~36年、ムッソリーニはエチオピア を侵略しました。
国際連盟はイタリアに経済制裁を実行しましたが、十分な効果をあげられませんでした。
枢軸の形成
1936年、ベルリン=ローマ枢軸
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、ベルリン=ローマ枢軸ナチス=ドイツとイタリアの協力体制
枢軸
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物事の中心となる部分

ベルリン=ローマ枢軸(左:ムッソリーニ、右:ヒトラー)
スペイン内戦
1931年、スペインで王政が崩壊すると、政局が混乱しました。
1936年、社会党のプルム を首相とする人民戦線内閣(人民戦線政府)が成立しました。
人民戦線
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ファシズムへの反対、戦争への反対を目標として結成された集団のこと
1936~39年、スペイン内戦
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39年、スペイン内戦 旧王党派や地主層に支持された軍人フランコが、人民戦線政府に対して起こした反乱
ファシズムに抵抗した文化人-ピカソ1936年、スペインでは、反ファシズムを掲げる連合「人民戦線」が、選挙で勝利して政府を組織しました。しかし、軍人フランコらが反乱を起こし、スペインは内戦状態となりました。ドイツとイタリアが反乱軍を支援したため、内戦はファシズムと反ファシズムの構図となりました。内戦中、ドイツがスペインの小さな町ゲルニカを無差別に爆撃しました。ピカソはそのおぞましさに怒り、この惨状を「ゲルニカ」として描きました。

ヴェルサイユ体制・ワシントン体制への挑戦
1933年の国際連盟の脱退後 、日本・ドイツは、国際的孤立を避けるため次の協力関係を結びました。
1936年、日独防共協定
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、日独防共協定 防共(反ソ連、反共産主義)を掲げた日本とドイツの協定で、同じ資本主義国の米英仏からの好意を期待
1937年、日独伊防共協定
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、日独伊防共協定 日独防共協定にイタリアが加盟
1937年、イタリアは国際連盟を脱退しました。
日本・ドイツ・イタリアは、ヴェルサイユ体制・ワシントン体制に挑みました。
