拡大する東と西の境界
表記について
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概要
「日本」と聞いて、どれほどの地理的範囲を想像するでしょうか。想像した現代の範囲と比べ、古代の「日本(7世紀後半までヤマト政権)」の範囲は遙かに狭いものでした。5世紀でようやく東は北関東、西は九州中部に達しました。範囲の拡大は範囲外の人々の抵抗を伴い、日本は抵抗する人々を服属させることで、東と西の境界を拡大していきました。東と西への進出
5世紀のヤマト政権の範囲
熊本県江田船山古墳の鉄刀・埼玉県稲荷山古墳の鉄剣には、倭王武(雄略天皇)の名があります。
このことから、5世紀のヤマト政権の勢力範囲は、おおよそ下図(色塗り部分)のように示せます。
また、『宋書』倭国伝には次の文が載ります。
「東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、…」
ヤマト政権は毛人・衆夷のような勢力範囲の外の者と争い、服属させて次第に勢力範囲の境界を東へ西へと広げていきました。
東北への進出
ヤマト政権に属さない東国の人々「毛人」は、後に蝦夷と呼称されました。
ヤマト政権は6世紀以降も進出を続け、蝦夷を服属させていきました。
孝徳天皇の御代647年に渟足柵、648年に磐舟柵を設置しました。
斉明天皇の御代658年、阿倍比羅夫を派遣して、日本海側の蝦夷を服属させました。
712年、日本海側に出羽国を設置しました。
724年、陸奥国に国府および鎮守府を兼ねる多賀城を設置した。
鎮守府
蝦夷征討のための役所・拠点
上記のような蝦夷征討には「夷を以て夷を制す」の政策がとられました。
そのような中で、780年、俘囚の伊治呰麻呂に多賀城を焼かれました。
「夷を以て夷を制す」
帰順した蝦夷で蝦夷を討つ政策
俘囚
8世紀以降に使用された、帰順した蝦夷の呼称
東北進出
九州南部の支配
熊襲(衆夷)は早くに服属し、ヤマト政権の勢力範囲は九州南部まで及びました。
服属した熊襲は隼人と呼称されました。
九州南部での律令の導入に対して、しばしば隼人が反乱を起こしました。
隼人への支配強化のため、8世紀初めに薩摩国や大隅国が設置されました。
薩摩国
大隅国
