武者ノ世ニナリニケル
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概要
延久の荘園整理令後、たとえ摂関家に寄進しても荘園の廃止を免れ得ないことが明白となりました。その結果、より強力な上皇、または、武勲をあげていた源義家に田地が寄進されました。しかし、一介の武士に次々と寄進が集まることは、看過できない問題でした。次第に源氏の勢力は抑圧され、反対に平氏の勢力が台頭しました。源氏と平氏の武名並ぶ
東の源氏
清和源氏は源満仲以来、摂関家と結びつき、また、武勲を得て勢力を強めました。
源頼信―平忠常の乱(1028年)
源頼義―前九年合戦(1051~62年)
源義家―後三年合戦(1083~87年)
義家は東国の武士の功労に私財で報い、その信頼を集めました。
これら武士は、義家の武力・地位を頼りに田地を寄進しました。
白河上皇は、諸国の武士・農民が義家に寄進することを禁止しました。
寄進地系荘園は、寄進する相手次第で没収・消滅
開発領主は、寄進する相手により強力で安定した者を選択

源義家
白河は、義家の強まる勢力を抑圧するため、源氏に代わる勢力を探しました。
西の平氏
白河上皇は清和源氏への対抗勢力として、伊勢平氏に目をつけました。
伊勢平氏の平正盛は北面の武士に任命され、また、1108年に源義家の子源義親が出雲国で起こした乱を鎮圧しました。
伊勢平氏
平貞盛の子孫で、伊勢国に基盤をもつ桓武平氏
平氏は源氏に比べて出自で劣り、反乱鎮圧も失敗して地位が一度低迷

平正盛
平正盛の子平忠盛は瀬戸内海の海賊を平定し、鳥羽上皇の信任を得て、異例の出世を遂げました。
貴族は「平忠盛朝臣が正四位下に叙せられた。上皇が除目・叙位を行われるさまは、なに一つ道理にかなっていない」と愚痴を吐露
武士に頼った2つの乱
嫌われる「叔父子」
白河上皇は養子の藤原璋子を鳥羽天皇に入内させました。
璋子に子が生まれましたが、実は白河と璋子の子であり、鳥羽は子を「叔父子」と呼んで忌み嫌いました。
白河は鳥羽に迫って譲位させ、叔父子崇徳天皇を即位させました。
崇徳天皇関係の系図
白河の死後、鳥羽が院政を始めると、鳥羽は崇徳に迫って譲位させ、やがて後白河天皇が即位しました。
崇徳はこの皇位継承に不満を抱き、後白河と対立しました。
この対立に摂関家の内部対立が加わり、両者の激突は一触即発となりました。
上皇と天皇の対立
鳥羽の死後、上皇と天皇の対立に一挙に火がつき、武力衝突に発展しました。
1156年、保元の乱
| 列1 | 列2 | 列3 | 列4 | 列5 |
|---|---|---|---|---|
| 天皇方 | 後白河天皇 | 藤原忠通 | 平清盛(甥) | 源義朝(子) |
| 天皇家 | 藤原氏 | 平氏 | 源氏 | |
| 上皇方 | 崇徳上皇 | 藤原頼長 | 平忠正(叔父) | 源為義(父) |
結果
後白河天皇の勝利、崇徳上皇の讃岐国への流刑
意義
「武者ノ世」の始まり
後白河天皇側は、側近の藤原通憲(信西)の助言で初戦から優勢
藤原通憲が恩賞の大小を「源氏<平氏」としたので、源氏の不満増大
武力衝突に際して、双方とも武士の力で解決
「日本国ノ乱逆ト云コトハ起リテ後、武者
ノ世ニナリニケル」(慈円『愚管抄』)

怨霊となった崇徳上皇
院近臣同士の対立
保元の乱後、後白河天皇は上皇となって院政を開始しました。
後白河の院近臣藤原通憲(信西)と藤原信頼の対立が激化しました。
1159年、平治の乱
| 列1 | 列2 | 列3 |
|---|---|---|
| 藤原通憲(信西)(自殺) | 平清盛・平重盛 | |
| 院近臣 | 平氏・源氏 | |
| 藤原信頼(斬首) | 源義朝(謀殺)・源頼朝(伊豆国へ流刑) |
結果
都の源氏勢力の除外、平氏の勢力増大、院近臣の死による上皇の力低下
意義
平氏政権の成立

門にかけられた信西の首
