室町文化-南北朝文化・北山文化
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概要
南北朝の動乱を通じて公家の権威が失われ、新興の武家が文化的活動の舞台を整えるようになりました。古代以来、常に文化的活動の中心にいたのは公家でしたが、室町時代には公家に代わって武家が台頭しました。また、中国の文化受容の中心となった禅僧は、禅の精神を建築・文学・絵画で表現して、特異な文化を生み出しました。広義の室町文化
3つの時期区分
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南北朝文化
時期は主に南北朝時代にあたり、動乱の緊張感を背景に歴史書や軍記物語が盛んに作られた文化
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北山文化
時期は14世紀末から15世紀前半にあたり、公家・武家の文化融合が進み、禅宗など中国の文化も受けた文化名称は3代将軍足利義満が京都北山に山荘を建てたことに由来し、この山荘の一部が鹿苑寺金閣
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東山文化
時期は応仁の乱中から乱後にあたり、禅の精神に基づく簡素さ(侘)や、言葉で表せない深くほのかな余韻(幽玄)を特徴とする文化名称は8代将軍足利義政が京都東山に山荘を建てたことに由来し、この山荘の一部が慈照寺銀閣

鹿苑寺金閣

慈照寺銀閣
南北朝文化
歴史書と軍記物語
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『増鏡』
「四鏡」の1つで、公家の立場で源平の争乱頃から鎌倉時代末期を記述
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『神皇正統記』
南朝の重臣北畠親房が常陸国で執筆し、南朝の正当性を記述
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『梅松論』
室町幕府の立場で、執権政治から南北朝の動乱を記述
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『太平記』
後醍醐天皇の登場から南北朝の動乱を3部構成で記述
北畠親房
幼少の天皇のために、有職故実の書『職原抄』も執筆

北畠親房
楠木正成らの死後、南朝の中心となって北朝に抵抗し、常陸小田城で『神皇正統記』を著しました。南朝が正当な皇統として君臨することを夢見ながら生涯を終えました。
楠木正成らの死後、南朝の中心となって北朝に抵抗し、常陸小田城で『神皇正統記』を著しました。南朝が正当な皇統として君臨することを夢見ながら生涯を終えました。
諸文化の流行
田楽・猿楽の演劇形態能、和歌の上句と下句を別の者が作る連歌、多人数で茶を楽しむ茶寄合で茶の味を飲み分ける闘茶が流行しました。
二条良基は『菟玖波集』を編纂して連歌を和歌と対等の地位にし、また、連歌の規則書『応安新式』を著しました。
「ばさら」と呼ばれる、人目をひく珍奇で派手な服装・行動を好む風潮も流行
田楽能と猿楽能

二条良基
北山文化
建築
代表例は3代将軍足利義満が建立した鹿苑寺金閣です。
鹿苑寺金閣の建築様式は、伝統的な寝殿造と禅宗様の折衷です。
その他、禅の精神を表現した庭園も造園
仏教
初代将軍足利尊氏が夢窓疎石を篤く帰依したため、室町幕府は鎌倉幕府の方針を受け継ぎ、臨済宗を保護しました。
幕府は臨済宗の寺院を管理するため、五山・十刹の制という寺院の格付けを定めていきました。
五山・十刹の制は足利義満の時代にほぼ完成しました。
僧録
五山・十刹の人事などを司る管理職

夢窓疎石(1275~1351年)
臨済宗の僧。後醍醐天皇・足利尊氏・足利直義の帰依を受けました。
臨済宗の僧。後醍醐天皇・足利尊氏・足利直義の帰依を受けました。
五山・十刹の制
五山の上
南禅寺
京都五山
天龍寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺
鎌倉五山
建長寺・円覚寺・寿福寺・浄智寺・浄妙寺
文学
五山の僧は、漢詩文や漢文学研究の書物五山文学を書きました。
出版活動も展開され、木版印刷されたものを五山版と呼びました。
五山文学の最盛期に、二大権威絶海中津・義堂周信が活躍しました。
絵画
禅の精神を具現化した絵として、水墨画が描かれました。
東福寺の明兆、相国寺の如拙(代表作:『瓢鮎図』)・周文(代表作:『寒山拾得図』)など五山の僧に基礎が築かれました。

『瓢鮎図』
歴史書と軍記物語
『難太平記』
今川了俊が、『太平記』の記述訂正を意図して記述
能
寺社の保護を受けて能を演ずる技術集団(座)が現れました。
なかでも、観世座・金剛座・金春座・宝生座は、大和猿楽四座と総称され、興福寺に保護されて活躍しました。

能
観世座の観阿弥・世阿弥父子は、足利義満の保護を受け、猿楽能を大成しました。
また、世阿弥は能の理論書『風姿花伝(花伝書)』を著しました。
