享保の改革
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概要
徳川家継の死をもって徳川宗家の血は完全に絶えました。三家が8代将軍の座をめぐって争い、紀伊の吉宗が勝ち抜きました。吉宗自身の資質・人望や彼を支える有能な人材があった結果です。吉宗は、財政再建のために「上げ米」という恥辱に甘んずる一方で、65年ぶりの日光社参(軍役)を命じて強い将軍像も誇示しました。8代将軍の治世
三家からの将軍
7代将軍徳川家継が夭折し、家康以来の宗家(本家)が途絶えました。
1716年、三家の1つ紀伊藩の藩主徳川吉宗が8代将軍になりました。
5代将軍徳川綱吉以来の側用人の政治は反発を招いていました。
吉宗は側用人の廃止で反発を鎮めた後、同機能の御用取次を新設し、これを介して享保の改革という将軍主導の幕政改革に取り組みました。

徳川吉宗
改革のための人材登用
儒学者の登用
『政談』を著した荻生徂徠や木下順庵に学んだ室鳩巣などを登用しました。
有能な人材の登用
武士の収入俸禄(石高は俸禄の多寡を示すもの)は世襲され、増減しませんでした。
役職ごとに石高の基準(役高)があり、満たさぬ者は上位の役職に就けませんでした。
俸禄と役高
吉宗は、役高に対する石高の不足分を在職中のみ役料で補いました。
この制度を足高の制といい、少ない財政負担で有能な人材を登用できました。
例えば、川崎宿の田中丘隅や町奉行として活躍した旗本大岡忠相を登用しました。
田中丘隅
荻生徂徠に学び、意見書『民間省要』を記して吉宗に献呈
俸禄と役料
享保の改革
最重要課題―財政の再建
財政窮乏対策
1722~1730年、徳川吉宗は財政窮乏対策に上げ米を実施し、大名から石高1万石につき米100石を臨時に上納させました。
実施中、上納の代償に参勤交代の在江戸を1年から半年に短縮しました。
参勤交代
大名が経費調達に裕福な商人からの貸付大名貸
を頼って問題化

恥辱の上げ米
収入の増大
-
定免法の採用
検見法を改め、年貢率を一定期間固定
-
新田開発の奨励
商人の協力を得て米の増産
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商品作物生産の推進
西日本の幕領での綿作などで富の形成
結果、幕領の石高は1割以上増え、幕府の財政はやや立ち直りました。
幕領の石高
米価引上げ
米の増産の一方、供給量の過多が米価下落を招くことも懸念されました。
吉宗は、米価上昇(武士の収入増加)で、武家の財政を安定化しようとしました。
大坂堂島の米市場の先物取引を公認し、仮需要での米価上昇を試みました。
米価調節に奔走したため、吉宗の俗称は米将軍

先物取引
財政支出の抑制
吉宗は倹約令をしばしば出して、大名やその領民に質素倹約を命じました。
その他の諸改革
裁判事務の簡素化
1719年、吉宗は相対済し令を出し、金銀貸借の争いを当事者間で解決させました。
相対済し令
訴訟の減少が目的で、裁判借金銀に悩む旗本・御家人の救済策とするのは誤説
新しい産業の奨励
吉宗は甘藷・さとうきび・櫨・朝鮮人参などの栽培を奨励しました。
特に甘藷に関しては、青木昆陽を登用して、救荒用に普及を実現させました。

青木昆陽(儒学者)世の飢饉を憂い、徳川吉宗に甘藷ことサツマイモの栽培を進言しました。俗称は「甘藷先生」です。
学問の奨励
1720年、吉宗は漢訳洋書の輸入制限を緩和し、西洋の技術・学問の吸収を図りました。
1740年、青木昆陽・野呂元丈にオランダ語を学ばせ、後の蘭学
興隆の基礎を構築
江戸の防災
江戸の防災は、町奉行大岡忠相によって進められました。
- 広小路・火除地などの設置で延焼を防止
- 定火消とは別に、町方独自の町火消を組織
町火消
「いろは」47組(のち48組)から成る消防組織
鳶とび人足
建築の足場を組立てる職人で、町火消の構成員の中核

い組・ろ組・は組の纏まとい
救民政策
評定所の門前に設置した目安箱に、庶民の意見を投書させました。
意見に基づき、貧困な病人の救護施設小石川養生所を設置しました。

目安箱
吉宗政権末期の政策
司法基準の明確化
1742年、幕府の成文法公事方御定書が完成し、裁判の公正な基準が定まりました。
将軍家の断絶防止策
徳川吉宗は将軍家の断絶を防止するため、三家のほかに新たな分家を2つ設けました。
1つ目が吉宗の次男徳川宗武を始祖とする田安家、2つ目が吉宗の四男徳川宗尹を始祖とする一橋家です。
後に9代将軍徳川家重の次男徳川重好を始祖とする清水家も加え、田安家・一橋家・清水家を三卿と総称

徳川宗武

徳川宗尹
